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50年(昭和25年)6月に勃発した朝鮮動乱は、発電ランプの生産に不可欠な材料であるニッケルが手に入らなくなるという思いがけない危機を三洋電機にもたらした。それをなんとか乗り切った歳男は、発電ランプの事業だけに頼っていてはいけないと思い、ラジオ事業への参入を決意した。
当時、統計上のラジオ生産台数は年間41万台。しかし、この数字は市場に出回る実際の台数の40%に過ぎなかった。あとの60%は、アマチュアが部品を買って組み立てたヤミラジオが売られていたのである。その原因の一つは、ラジオにかけられていた30%という高率の物品税にあった。税金のために値段が高いメーカー製品が敬遠され、ヤミラジオの方が多く売れていた。
「これでは国技館の大相撲が草相撲に負かされているようなものだ。草相撲の製品では輸出もできないから、国の経済に役立つどころではない」
さっそく歳男は政府に現状を説明し、物品税の引き下げを働きかけるとともに、安くて性能の良いラジオの開発を弟の薫に指示した。
当時のメーカー製5球スーパーラジオは、1万数千円で売られていた。アマチュアをおさえ、業界で後発の三洋電機が勝負するためには、何よりも1万円以下の価格であること、同時に性能・デザインでどこにも負けないことが求められた。
「安くするには大量生産しかありません。年に10万台を計画しようと思います」
薫は思い切った大量生産方式の採用を歳男に提案した。先発メーカーの生産計画は、1機種でせいぜい3,000台から5,000台という時代だった。
「わかった。やるからには、新しいやり方で国民生活を豊かにするラジオにしよう」
歳男は即座に決断した。 |

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